小倉で1泊した次の日は早めに移動して、飯塚の伊藤伝衛門邸を訪ねましたが、その次はいよいよ福岡入り。筑前福岡52万3千石の石高を誇った黒田藩の藩府となった都市です。ご存知の方も多いかと思いますが福岡という名前はその黒田氏が筑前に入部してからついた新しい都市名です。そこは魏志倭人伝など弥生の昔は[那の津」、平安期以降は博多と呼ばれた一大貿易港でした。地図で見ても博多湾が三方を陸に囲まれ、広い湾内を持つ天然の良港であることは一目瞭然です。
黒田長政が関ケ原戦役の戦功で豊前中津12万石から筑前52万石に大栄達として入ってきたとき当初は博多の北郊名島でした。名島城に入った長政は、早速52万石に相応しい城作りを考えましたが、その時博多の東側の丘に城を築きました。その名前を、以前黒田氏の祖先が活躍したとされる備前(岡山県)福岡の地に因んで福岡城を名付けたのが九州に福岡が現れた起源となります。黒田氏は先祖が商人であったともいわれることから、博多の商人も大切にし福岡の街に武士を住まわせることはしなかったといわれます。江戸幕府が鎖国を実施しなかったら博多商人を活躍させて海外貿易を積極的に行おうとも考えていたようです。今でも福岡は九州で最も栄える街として、東アジアへの玄関として大都市として発展しています。
福岡に行ったらまず真っ先に行きたい所それは黒田如水の墓のある、崇福寺の「黒田家墓所」でした。今は福岡市に管理が移っており、土日は一般開放もされています(それ以外の日は(公)福岡観光コンベンションビューローに連絡)。
「龍光院殿如水圓清大居士碑」
福岡藩祖黒田孝高の墓碑。やっとお目にかかる事ができました。黒田如水は慶長9(1604)年に京都伏見の黒田藩邸に於いて死去し大徳寺塔頭龍光院に葬られまましたが、その翌年には福岡にも墓碑が作られ分骨されたようです。播磨で活躍していた時は、その知恵と軍略で中国大返しを進言し、秀吉を天下人に立たせながら大国を与えられる事なく(豊前中津12万石と播磨からも引き離され)、また秀吉没後の関ヶ原の合戦では九州での西軍の諸城を攻めながらも、息子であり当主の長政の活躍として筑前福岡約52万石が与えられた事を殊更騒ぎ立てもせず、関ヶ原後はひっそりと隠居の身として過ごしたところは、誠に「上善は水の如し」「水は方円の器に随う」事を悟ったかのような生き方でした。播磨の黒田官兵衛、福岡の黒田如水は前半生と後半性が対照的に見えますが生き方としては一貫していたのではないかと、墓碑に書かれた碑文から読み取る事ができました。
福岡での夜は、もちろんもつ鍋で、そして翌日は福岡市美術館で開催されていた『電力王 松永耳庵の茶』展と無事に所期の目的を達成することができました。福岡市美術館の耳庵展は、市美所蔵のものは撮影可でしたし、また長次郎の楽茶碗の3Dプリンターで再現したレプリカは実際に触って重さや肌触りを体験することが出来て面白かったです。もちろん一級品の美術品・茶道具も見れて眼福の展覧会で大変勉強になりました。