博物館関係のお仕事をされている友人から、10月に福岡市美術館で松永耳庵の展覧会があると聞いていたので、松永コレクションの茶道具の逸品が観れるまたとない機会ですので仕事の打ち合わせと目の勉強もかねてようやく福岡行きが巡っていました。
16日㈯に雅楽教室の休日コースがありましたので、教室が終わった夕方奈良を出発し、一路神戸へ。今回は神戸から阪九フェリーにのって行くことにしました。遅い時間に出発し、船中一泊して翌朝新門司港に着くというコース。移動時間を有効に活用できると思い選択しましたが、瀬戸内海は海が穏やかで揺れることもなく、船内には大浴場もあり、ベットで寝れることから快適そのものでした。六甲アイランドにある阪九フェリーの港から故郷の明石海峡大橋を越えて福岡へ。福岡には博多駅に乗り換えで立ち寄った経験しかなく市街地を見るのは今回が初めて、長らく東京に住んでいたこともあり、行きたいと思いながら今回初のお国入りです。播磨の地から興って筑前の大大名にまで登り詰めたその足跡と筑紫の女王と呼ばれた女流歌人、また電力王と言われた松永耳庵の茶を駆け足で巡る予定でした。
翌朝、十分睡眠をとって新門司港へ。フェリー乗り場の建物はなんと、平城宮の大極殿を模した建物!まさか九州で奈良で見慣れた大極殿を見るとは思いませんでしたw。
今回福岡での打ち合わせおよびアテンドをお願いしていたS君に車で迎えに来てもらいました。S君はなんと地元が飯塚で伊藤伝衛門について私が話すると快くご案内してくださるとのことで、今回小倉・福岡の旅のお供をお願いしました。まず案内してもらったのは「門司港レトロ」と呼ばれる一角。今もよく近代現地が残されていてとても美しい街並みです。そんな中、旧門司税関の赤煉瓦の建物は、朝の連続ドラマで一躍有名になった広岡朝子が筑豊の石炭を海外に輸出するために当局に働きかけて実現し、後に石炭から鉄と海外輸出の拠点となる北九州の礎となった事を興味深く思いました。この門司税関が無ければ、石炭王と言われた人々が財を成すことが出来たか、そして筑紫の女王と言われた柳原白蓮もこの地に来たかどうか分からず、後々の皇室のあり方も変わっていたかもしれません。
小倉は江戸時代は細川家、細川家が熊本に転封になったのちは、小笠原家の所領となりましたが、小笠原家は播磨国明石から移ってきたのであり、宮本武蔵の息子伊織は小笠原家の家老として重用され武蔵もそれに伴って九州にやってきたということを初めて知りました(ちなみに明石城を作るにあたって城下町の町割りは宮本武蔵が行ったといわれています)。小笠原家の小倉転封がなければあの巌流島の決闘もなかったかもしれません。こんなところでも明石との縁が繋がっていたとは感慨深いものがありました。その日はそのまま門司港周辺のホテルに宿泊。夜景に映し出された門司港駅やレトロ建築がとても美しい場所でした。
翌朝はいよいよ 飯塚市にある旧伊藤伝右衛門邸へ。近代女流歌人として、柳原伯爵家に生まれ大正天皇と従妹というやんごとなき家に生まれ、やがて九州筑豊の炭鉱王と言われた伊藤伝右衛門に嫁ぎ「筑紫の女王」といわれるほど経済的に恵まれた生活を保証されながら、後に宮崎龍介と駆け落ちし所謂「白蓮時件」を起こすことに。 〜中略〜「この手紙により私は金力を以って女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の袂別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を守り、且つ、培ふ為に貴方の許を離れます。」〜以下略〜と、恋に走り自分の人生を切り拓いていったその人生に共感をもっている人々も多いと思います。朝の連続テレビ小説(朝の連ドラ)『花子とアン』のモデル村岡花子とも親友で、ドラマでも仲間由紀恵が白蓮に当たる蓮子を演じていたのは印象的で白蓮が一躍知られるきっかけとなりました(もっとも事件当時は現在多い女性ファンとは裏腹に女性には不評だったともいわれています)。 華族というやんごとなき身分に生まれながら、その身分を捨て親族からも見放され追放となりながら、愛する人と共に生きる事を選び、夫を助けて一生を過ごした信念の女性ともいわれていますが、戦後は当時の明仁皇太子妃として選ばれた正田美智子さんとのご結婚には、当時の梨本伊都子(佐賀鍋島家の出身で梨本宮妃となり娘は李王妃方子殿下の母)さん、松平信子(梨本伊都子の妹で会津松平容保の息子松平恒雄に嫁ぎ秩父宮妃勢津子殿下の母)、そして香淳皇后と共に、自身の生き方とは裏腹に猛烈に反対したといわれています。結局、昭和天皇の御裁可が降りたことによりその後は一切の口出しをする事はなかったようです。 伊藤伝右衛門は一炭鉱夫から父や仲間とともに小さな炭鉱経営から始め、当時の富国強兵殖産興業政策で石炭の需要が飛躍的に拡大するとともに一代にして巨万の富を蓄え大富豪となった立志伝中の人です。前述の「白蓮事件」では悪役のようにされていますが、華族の令嬢を妻に迎えるにあたって、この豪邸を新築し妻の白蓮の部屋を二階に作り、自分の部屋は大広間の背後の一階に慎ましく作っているように感じ、礼節を重んじ妻に対する気遣いをした紳士であったように思います。
おもひきや 月も流転の かげぞかし わがこしかたに 何をなげかむ
月の流転のような人生を歩み歌を詠み続けた柳原白蓮、今週末の三五夜の月釜には、時節柄この事も少し取り上げたいと思います。
「白蓮事件」に際し、新聞公論で一度だけその顛末と自分の考えを述べたのちは、一切口を封じ語らなかったこと、地元の人々からはいまでも「伝右衛門さん」と呼ばれ愛されていること、またこの建物が老朽化のため取り壊しの話が出たときも、地元の人々が反対し飯塚市が買い上げることになったことからも、伊藤伝右衛門はかなり男気にある人物であったと思われます。そしてめでたく、この旧伊藤伝右衛門邸は令和二年12月23日に国の縦横文化財に指定されました。庭には藤袴は満開でその周りをアサギマダラというアゲハ蝶の一種が飛び交う光景は激動の時代を経て今は平穏をとりもどしているよう感じました。
【福岡編に続く】